中学1年生の社会の歴史では、「室町時代と中世文化」という単元を学習します。
そこでこの記事では、この単元が苦手という中学生やそして中学生に勉強を教える親御さんのために抑えておくべき重要なポイントをわかりやすくまとめたので参考にしてください。
室町幕府のしくみ
1392年、足利尊氏の孫で室町幕府3代将軍である足利義満によって、南朝と北朝が統一されました。
幕府がただ一つの中央政権となり、朝廷の政治的、経済的権限を吸収していきます。
将軍補佐役に管領が置かれ、管領は、足利一門である斯波氏・細川氏・畠山氏の有力な守護が任命されました。
他にも、京都の警備を行い御家人を統率する部署として侍所が置かれました。侍所の長官には、四職とよばれた京極氏・山名氏・赤松氏・一色氏の有力な守護が任命されました。
中央には、それ以外にも幕府の財政を取り扱う政所や、裁判や記録を行う問注所が置かれました。
一方、鎌倉時代に幕府があった鎌倉には地方機関として鎌倉府が置かれ、関東を支配しました。
鎌倉府の長官は、鎌倉公方といい、足利氏の一族がその地位についていました。鎌倉公方は、次第に独立した勢いを示すようになり、幕府とも対立するようになります。
それ以外の地方でも、南北朝の動乱に伴い、鎌倉時代から続く地方の守護は、室町幕府から強い権限を与えられました。
守護は、自分の領土を増やし、領土内の地頭や武士を自分の家来にしていき、やがて一国を支配するようになりました。このような守護を守護大名といいます。
守護は、国や城に館を築き、国司の権限を持つようになって支配を強め、領地を拡大しました。
応仁の乱
15世紀半ばに強い権力をふるった第6代将軍足利義教が暗殺されます。その後幕府では、守護大名の間で勢力争いが起こりました。
第8代将軍足利義政のとき、有力守護大名であった細川勝元と山名宗全が将軍のあとつぎ問題で対立しました。
1467年から京都を中心に東軍(細川方)、西軍(山名方)に別れ、11年争うことになります。この戦乱を応仁の乱と言います。
京都での応仁の乱をきっかけとした戦乱は、全国各地に広がり、地方の社会に新たな動きが始まりました。
地方の新しい動きとしては、一揆が続くようになります。例えば、京都府南部の山城で発生した山城国一揆では、武士と農民が一体となって戦い、守護大名を追放し自治を行いました。
現在の石川県である加賀の一向一揆では、浄土真宗の信仰で結び付いた武士や農民たちが守護大名をたおし約100年の自治を行うようになりました。
室町幕府の滅亡
1568年、尾張を支配していた織田信長が足利義昭を奉じて入京し、義昭を15代将軍につけますが、何も権力を持てなかった義昭は信長と不和になり、各地の大名に信長を討つように働きかけました。
しかし、各地で勝利をおさめた信長は、1573年に義昭を京都から追放し、室町幕府が滅亡したのです。
鎌倉・室町時代の産業
室町時代は、南北朝の動乱が終わって社会が安定したことや、明、朝鮮との貿易によって各地で産業が盛んになりました。当時の明の通貨である明銭も日明貿易で大量に日本に入ってきたようです。
農業では、鎌倉時代にはじめられた同じ田畑で米と麦を交互に作る二毛作が広がりました。かんがい用の水車や、肥料に牛馬のふんや堆肥の肥料が使われるようになり、収穫量も増えました。また、麻・茶・くわ・あいの栽培も広まりました。
15世紀は地球規模での寒冷期で、日本でも何度も飢饉が起こり、村ごとに農民がそろって田植えをおこなうなど、村の結びつきが強まり、ききんに強い農作物や新たな品種の栽培が進むなど、農業などで新しい技術が広く取り入れていきます。
手工業では、職人が登場します。京都市の西陣や福岡市の博多の絹織物をはじめ、陶器、紙、酒、油などの特産物が各地で生産され、刀や農具を造る鍛冶・鋳物業なども盛んになりました。
金・銀・砂鉄なども採掘されました。
町や村の発達
業では、定期市が広く各地に生まれ、開かれる日数も増えました。
定期市の取り引きに宋や明から輸入された宋銭や明銭などが使用されることが多くなり、交通の要所では、物資を運ぶ馬借(ばしゃく/陸運)や、問(とい/運送・倉庫)と呼ばれる運送業をかねた倉庫業者が活動しました。
お金の貸付を行っていた土倉・酒屋などの金融業者、商人や手工業者などは、同業者ごとに座という団体を作り、武士や貴族、寺社にお金などで税を納めて保護を受け、営業を独占する権利を認められました。
こうした商業の発展で、港町や寺社の門前では都市が発達しました。なかでも、次に出てくる応仁の乱から復興した京都では、町衆と呼ばれる裕福な商工業者によって寄合で政治を行う自治都市となります。
また、日明貿易や日朝貿易で栄えた博多や堺でも、自治が行われました。
農村では、有力な農民を中心に村ごとにまとまり、自治組織の惣が作られ、農業用水路の建設や管理、燃料や飼料をとる森林の利用や管理などについて、村のおきてを定めました。
農民は団結して荘園領主や守護大名にも抵抗するようになり、多くの村が結び付き、年貢を減らす交渉などをしました。
15世紀になるとお金の貸付を行っていた土倉や酒屋をおそって借金の帳消しなどを求める土一揆が近畿地方を中心に広がりました。
鎌倉仏教
鎌倉時代に広まった新しい仏教は、わかりやすく、実行しやすい教えという特徴があり、6つの宗派とそれを広めた人物をまとめました。
①法然→浄土宗
源平の争乱の前後に、浄土信仰の教えを徹底することを目指した法然が「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、誰でも極楽浄土に生まれ変われると説いて浄土宗を開き、武士や民衆に広がりました。
②親鸞→浄土真宗
法然の弟子の親鸞は、阿弥陀如来の救いを信じる心を強調した浄土真宗を農村で広めました。
③一遍→時宗
一遍は、踊念仏や念仏の札によって布教活動し、時宗を広めました。
④日蓮→日蓮宗=法華宗
日蓮は、法華経の題目「南無妙法蓮華経」を唱えれば、人も国を救われると説き、日蓮宗(法華宗)を開きました。
日蓮は他の宗派や幕府を批判したため、幕府によって伊豆や佐渡に流されましたが、それでも布教活動を続け、武士や農民に教えが広まりました。
⑤栄西→臨済宗
栄西は、座禅を組み自分の力でさとりを開こうとする禅宗を宋から伝え、臨済宗を開きます。
鎌倉幕府から保護され、京都の貴族や鎌倉幕府の有力者を中心として広まりました。
⑥道元→曹洞宗
道元は、臨在宗の栄西と同じく、 座禅を組み自分の力でさとりを開こうとする禅宗を宋から伝え、曹洞宗を開きます。
北陸地方を中心として、地方の武士に広まりました。
鎌倉時代の文化
鎌倉時代には、武士が台頭していく中で、貴族は朝廷の文化を見直すようになり、新しい文化が生まれてきます。
後鳥羽上皇の命により「新古今和歌集」が藤原定家などの手によって編集されました。全20巻、約2,000首の和歌がおさめられた超大作で、貴族で、和歌の師匠の家柄だった編者の藤原定家自身の和歌や、武士から僧になった西行の他、社会のむなしさを「方丈記」に記した鴨長明などの和歌がのっています。
東大寺は平安時代後期の源平の争乱の中で、平清盛の命をうけた平氏によって焼失していました。鎌倉時代に、貴族や武士だけではなく民衆からの寄付も集めて建て直されました。
再建された東大寺の南大門には、宋から新しい建築様式が取り入れられ、運慶が金剛力士像などの力強い彫刻作品を制作しました。
東大寺再建の影響を受け、鎌倉でも同様に寄付によって大仏が造られました。
そのほか、源平の争乱がえがかれた軍記物である「平家物語」は、琵琶を弾きながら各地をめぐっていた盲目の琵琶法師によって語り伝えられたため、多くの人々の間に広まりました。
また、日本の三大随筆は、平安時代に清少納言によって書かれた日本の随筆の起源といわれる「枕草子」の他の2つの随筆がは鎌倉時代に書かれました。
鴨長明が書いた「方丈記」、そして兼好法師が書いた「徒然草」です。
室町時代の文化
室町時代は、武家文化に公家文化や禅宗文化がとけ合う新たな文化を生み出しました。
鎌倉時代に栄西が宋からもたらした茶を飲む習慣は、茶の産地を当てる会が行われるなど茶の湯の流行を生み出し、人々が集まって和歌の上の句と下の句を次々によむ連歌や、生け花なども盛んでした。
観阿弥・世阿弥親子が、それまで貴族や武士に親しまれていた猿楽にほかの芸能の要素を取り入れながら、現在でも続く能を大成し、幕府の保護も受けました。
鎌倉時代に発展した新しい宗教(浄土宗・浄土真宗・時宗・日蓮宗・臨済宗・曹洞宗など)は、室町時代に宗派ごとに教団を作るようになりました。
浄土真宗は、北陸や近畿地方の武士や農民に広まり、日蓮宗は京都や堺の商工業者に広まり、禅宗は、京都や鎌倉の五山と呼ばれるそれぞれの五つの主要寺院を中心に幕府の保護を受け、僧が文芸や外交、貿易に活躍しました。
室町文化の中でも足利義満の時期の文化を北山文化といい、京都の北山の別荘に建てられた金閣には公家の文化と武家の文化が融合された室町文化の特色がよく表現されています。