中学1年生の社会の歴史では、「安土桃山時代」という単元を学習します。
そこでこの記事では、この単元が苦手という中学生やそして中学生に勉強を教える親御さんのために抑えておくべき重要なポイントをわかりやすくまとめたので参考にしてください。
織田信長
織田信長は、尾張の小さな戦国大名でしたが、「天下布武」をかかげ、武力による全国統一を目指した戦国武将です。
駿河の有力大名今川義元を桶狭間の戦いで破って勢力を広げ、足利義昭を援助して京都に上りました。
信長は朝廷への働きかけにより、足利義昭を第15代将軍にすることで実権をにぎりました。しかし、1573年には、敵対するようになった義昭を京都から追放し、室町幕府は滅亡しました。
織田信長は、鉄砲を有効に使って戦いました。甲斐の大名武田勝頼を長篠の戦いで破り、翌年から、5層の天守を持つ安土城を築きました。
織田信長の政策と本能寺の変
城下町には楽市・楽座の政策によって商人を招き、座や各地の関所を廃止し、自由な商工業の発展を図りました。
一方で、従来から勢力をもっていた堺などの自治都市や比叡山延暦寺、一向一揆などの抵抗仏教勢力は武力により制圧しました。
織田信長が全国統一を目前にしながら、家臣の明智光秀が謀反を起こし信長は寝込みを襲われ、包囲されたのを悟ると、寺に火を放ち自害します。
これを本能寺の変といいます。
豊臣秀吉
織田信長に謀反を起こした光秀は同じく信長の家臣であった羽柴秀吉に山崎の戦いに破れます。
信長の後継者争いに勝利した秀吉は、 本拠地として壮大な大阪城を築きあげ、朝廷から関白に任命され、豊臣の姓を与えられ全国に停戦を命じました。
1587年には、九州を統一しようとしていた島津氏を降伏させます。さらに1590年に、関東の北条氏をほろぼすと、奥羽の大名も秀吉に従い、全国統一を完成させました。
豊臣秀吉は、重要な都市(大阪、京都、堺など)や重要な鉱山(新潟県の佐渡金山、兵庫県の生野銀山、島根県の石見銀山など)を直接支配し、鉱山開発を進め、統一的な金貨として大判などを発行しました。
豊臣秀吉は、それ以外にも征服した土地など約200万石の領地をもち、さらに、ほかの大名の領地にある金山や銀山から税を徴収していました。
豊臣秀吉は、甥の豊臣秀次に関白を譲った後は「太閤」と呼ばれました。
太閤は、摂政または関白の職を退いたあとに、子が摂政の職に就いた者や、摂関辞職後に内覧の宣旨を受けたものを指す称号でしたが、秀吉の死後も太閤といえば秀吉を指すことが多くなっています。
徳川家康
1598年の豊臣秀吉の病死以降、関東を領地としていた徳川家康が勢力をのばしました。
1600年、秀吉の子、豊臣秀頼の政権を守ろうとした石田三成は、毛利輝元などの大名に呼びかけ、家康に対して兵を挙げ、家康も三成に反発する大名を味方に付け、全国の大名はそれぞれ三成と家康を中心とする西軍と東軍とに分かれて戦う関ケ原の戦いが起こります。
これは別名「天下分け目の大合戦」とも言われ、この戦いに勝利した家康は全国支配の実権を握りました。
1603年、家康は朝廷から征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開き、260年余りも続く戦乱のない平和な時代を作り上げます。この時代を江戸時代といいます。
その後、家康は1614年の「大阪冬の陣」、1615年の「大阪夏の陣」という二度にわたる合戦で豊臣氏をほろぼし、幕府の権力を固めます。
南蛮文化
パン、カステラ、時計などは、南蛮貿易がさかんだった戦国時代から安土桃山時代にかけて日本にもたらされます。
文学や医学、航海術など、新しい学問や技術は布教活動をするキリスト教の宣教師によって伝わります。
絵画では、長崎の南蛮船入港の様子が描かれたり、ヨーロッパ風の絵画も描かれ、宗教画なども制作されました。
活版印刷術も伝えられ、聖書など布教に必要な書物や、『平家物語』などの日本の書物が、ローマ字で印刷されるなど、ヨーロッパの文化から影響を受けて成立した芸術や流行の風俗を南蛮文化と呼びます。