中学2年生の社会の歴史では、「江戸の政治と外交(江戸初期)」という単元を学習します。
そこでこの記事では、この単元が苦手という中学生やそして中学生に勉強を教える親御さんのために抑えておくべき重要なポイントをわかりやすくまとめたので参考にしてください。
幕藩体制
徳川家康が開いた江戸幕府は、幕府直接の支配地として約400万石を占めていました。幕府直接の支配地は幕僚と呼ばれ、当時の全国の石高は約3,000万石でしたので、全国の約16.6%を支配していたことになります。
そして、京都、大阪、奈良、長崎などの重要都市や主要な鉱山を直接支配し、貨幣を発行する権利を独占しました。
さらに、江戸を中心に道路を整備し、街道には宿場を、重要な場所には関所を置きました。
江戸時代の大名は、主に石高1万石以上の領地を幕府から与えられた武士を指すようになります。藩主、大名の領地やその支配の仕組みを藩といいます。
幕府と藩の力で全国の土地と民衆を支配する政治制度を幕藩体制と呼びます。
江戸時代の大名にも種類がありました。親藩・譜代大名・外様大名に分けられました。
親藩は将軍家の親戚
譜代大名は関ケ原の戦い以前から徳川家に従っていた大名
外様大名は関ケ原の戦い以降に徳川家に従った大名
「御三家」と呼ばれる尾張・紀伊・水戸はたいへん重んじられ、有名な水戸黄門は、「御三家」の水戸藩主・徳川光圀の別称です。
幕府は、藩を取りつぶしたり領地変えを行う力をもっていて、外様大名を江戸から遠い地域に移すなど、大名の配置も工夫していました。
幕府の政治は、将軍が任命した老中が行い、若年寄が補佐をし、三奉行(寺社奉行・町奉行・勘定奉行)をはじめとする多くの役職が置かれ、譜代大名や旗本を任命しました。
江戸の身分制度
豊臣秀吉時代の太閤検地や刀狩などの兵農分離によって定まった身分は、江戸時代になってさらに強まります。武士・百姓・町人に大きく分かれ、江戸や大名の城下町には、武士と町人が集められました。
武士は、主君から領地や米で支給される俸禄を代々あたえられ、軍役などの義務を果たし、名字・帯刀などの特権を持ち、武士道という支配身分として名誉や忠義を重んじる道徳意識を持つようになります。
町人は、幕府や藩に営業税を納め、町ごとに名主などの町役人が選ばれて自治を行いました。町の運営に参加できるのは、地主や家持に限定されていて、多くの借家人は日雇いや行商などで暮らし、商家の奉公人や職人の弟子は、幼いときから主人の家に住みこんで仕事を覚え、独立を目指しました。
百姓の中でもランクがあり、土地を持つ本百姓と土地を持たず小作を行う水のみ百姓です。
有力な本百姓は村役人になり、庄屋(名主)・組頭・百姓代などとして村の自治を行い、主にお米の年貢を徴収して幕府や藩に納めていました。
幕府や藩は、村の自治にたよって年貢を取り立て、財政をまかなうため、幕府は安定して年貢を取りたてようと土地の売買を禁止したり、米以外の作物の栽培を制限したりするなどの規制を設けましあ。
また、五人組の制度を作り、犯罪の防止や年貢の納入に連帯責任を負わせました。
百姓は、林野や用水路を共同で利用し、田植えなどもお互い助け合って行い、村八分という罰を作って、村のしきたりや寄合で定められたおきてを破る者には、葬式など以外には協力しないなどの独自のルールが生まれました。
厳しい身分による差別
百姓、町人以外にも、えた・ひにんといった身分の人々がいました。
「えた」と呼ばれた身分の人々は、農業を行って年貢を納めたほか、死んだ牛馬の解体や皮革業、雪駄作り、雑業、犯罪者を捕らえることや牢番などの役人の下働きも、役目として務めていました。
「ひにん」と呼ばれた身分の人々も、役人の下働きや芸能、雑業などで生活していたようです。
えた・ひにんの身分の人々は、他の身分の人々から厳しく差別され、村の運営や祭りにも参加できず、幕府や藩は、えた・ひにんの住む場所や職業を制限し、服装などの規制を行いました。
江戸初期の外交
徳川家康は、渡航を許す朱印状を発行して貿易の安定と発展に努め、ルソン(フィリピン)・安南(ベトナム)、カンボジア、シャム(タイ)どに、朱印状を持った船(朱印船)の保護を依頼しました。
京都や堺、長崎などの商人や西日本の大名の中には、この朱印状をもとに朱印船貿易を行う者が現れました。
そして、東南アジアへ多くの日本人が移住し、各地に日本町ができるようになりました。
また家康は、オランダやイギリスなど新しく来航した国との貿易も許可をし、長崎県の平戸には商館が設けられ、オランダ・イギリスとの貿易が開始されました。
江戸時代初期の輸入品は、主に中国産の生糸や絹織物が中心で、東南アジア産の染料や象牙などでした。
日本からの輸出品は、銀を中心に、刀や工芸品です。
鎖国へ
家康は、貿易の利益を最優先に考え、当初はキリスト教の布教に関しては黙認していました。そのためキリスト教に対する信仰が日本全国に広まっていくようになってしまいました。
こうした事態を踏まえて、1612年に幕府は、キリスト教への信仰を抑えるため、まずは直轄地の幕僚にキリスト教禁止令を出し、翌年には全国に広げました。
キリスト教の神への信仰を領主への忠義よりも重んじるという教えが、幕府の考えに反していたためです。
家康の次の第2代将軍である徳川秀忠も、この禁教令をさらに強化し、多くのキリスト教徒を処刑していきました。
1635年になると、第3代将軍である徳川家光は朱印船貿易を停止しただけでなく、日本人の海外への出国と帰国を一切禁止しました。
さらに長崎の海に出島を築き、ポルトガル人を移して、日本人と交流できないようにしました。また中国船が長崎以外の港に来ることも禁じてしまいました。
禁教令の強化に伴うキリスト教徒への迫害や、幕府の重い年貢の取り立てに苦しんだ島原や天草の人々は、1637年になると、天草四郎(益田時貞)という少年を大将にして一揆を起こしました。
この一揆を島原・天草一揆といいます。
翌1638年、幕府は一揆を鎮圧しましたが、1639年にはポルトガル船の来航を禁止したうえ、大名には沿海の警備を指示しました。
さらに1641年には、平戸のオランダ商館を長崎の出島に移し、ポルトガル船は排除され、中国船とオランダ船だけが、長崎で貿易を許可されることになりました。
この体制を鎖国と呼び、幕府による禁教、貿易統制、外交独占が行われるようになりました。
鎖国下の外交(中国とオランダ)
そんな鎖国下でも長崎で貿易を許されていたのは、中国とオランダだけでした。
このころ中国では、17世紀半ばに、明が国内の反乱によってほろび、清という中国東北部の女真族が建国した国が、中国全土を支配するようになっていました。
日本人は鎖国によって海外に行くことができなくなり、東南アジア各地にあった日本町はなくなってしまいました。
ちなみに中国とオランダの貿易が許された理由は、日本が中国の上質な生糸や絹織物、東南アジアの品物を必要としていたことと、オランダ人はキリスト教の布教を行わなかったためで、長崎で貿易を行ないました。
江戸幕府は、当時最大の輸出品だった金や銀が大量に海外へ流出することを国の損失だと考えて次第に制限するようになります。
金や銀のかわりに銅や俵物を輸出するようになりました。俵物とは、いりこ、干しアワビ、ふかひれなどの中国料理の高級食材を俵の中に詰め込んだもののことを言います。
また幕府は、ヨーロッパやアジアの情勢を報告するようオランダ人に義務付け、中国人にも唐船風説書を提出させることにより、海外の情報を独占しました。ヨーロッパの書物に関しては、輸入が許可されませんでした。
朝鮮と琉球王国
江戸時代において、朝鮮は対馬藩、琉球王国は薩摩藩をそれぞれ窓口としてつながっていました。
朝鮮は、対馬藩の努力の甲斐あって国交が回復し、将軍が変わるごとなどにお祝いとして使節(朝鮮通信使)が日本に派遣されるようになりました。
通信使の一行は、300人から500人にもおよび、その中には一流の学者や芸術家もいて、各地で日本の学者と交流しました。
対馬藩は、朝鮮の釜山に設けられた倭館という居留地に役人を派遣し、朝鮮との連絡や貿易を行いました。
朝鮮からの輸入品は木綿や朝鮮にんじん、絹織物などで、輸出品は銀や銅などでした。
琉球王国は、薩摩藩に攻められ服属はしましたが、江戸幕府は琉球を異国と位置付け独立国のままとしました。
そのため、国際的にも独立国で、独自で明や清に朝貢し、貿易も行っていました。
そのかわり薩摩藩は役人を琉球に派遣し、間接的に中国との貿易を行って利益を得ました。
また薩摩藩は、将軍や琉球国王に代わりがあると、琉球からの使節を江戸に連れてきて、将軍に面会させました。これを琉球使節といいます。
アイヌ民族との交易
江戸時代の蝦夷地には、アイヌ民族が暮らしていました。
アイヌの人々は、漁業などを行いながら、和人とだけではなく、千島列島や樺太、中国大陸の黒竜江流域の人々とも独自交易していました。
松前藩は、蝦夷地の南部に領地(現在の北海道松前町)を持っていた地理的利点を生かし、幕府からアイヌの人々との交易の独占を許され、米や食器などの日用品を、さけやこんぶなどの海産物と交換して大きな利益を得たようです。
こうした取引が不平等だとの不満もあって、アイヌの人々は17世紀後半に首長のシャクシャインを中心に松前藩との戦いをおこしましたが敗れます。
アイヌの特徴ある民族衣裳として、蝦夷錦もこのころ北海道に伝えらえました。